スコット・ジョプリン Scott Joplin 
〜 伝記風の手短なスケッチ

エドワード・A・バーリン

(※書籍の編集再販に伴う著者自身の改訂版)


 陽気ではちきれそうな活気に満ちた音楽、心を揺さぶると同時に両足が反応せずにいられない音楽、聞く者全てに微笑みがこぼれる音楽−かくも魅力的な音楽が引っ込み思案で悲しげ、<引きこもりがち>とも例えられた男により作曲されたとは、考えにくいだろう―だが実際に多くの人が口数の少ない人物だったと記している。確かにかくも物静かな人物だったろうが、それゆえ彼の音楽が最も雄弁に、彼自身の思うところを語っていたのだ。

 ジョプリンが出版した数々の曲−50を越えるピアノ曲(大半はラグだがワルツやマーチも含む)、歌曲がいくらか、そして1曲のオペラ−には、確かに彼のエッセンスがある。知るべきことはそれで全てだと言えるかもしれない。一方で、数々の逸話や個々の作品に見られる自伝的な示唆には抗しがたい魅力があるが、しかしそれらを詳細に探るのは「くたびれ儲け」と言う位やっかいな仕事で、それ程までに彼の生涯を語る文献は乏しいのである。自身の考えや活動を記した日記の類は何も残しておらず、個人的な手紙すら存在が知られていない。加えて知人の回想は「まるで当てにならない」ことが、今日では明らかになっている。そこで注目すべきは、彼の成した業績と不完全ながら実現した彼の希望が−ハイライトを見せつつ−、時に詳細を語っている点であろう。しかしそれ以外の生涯を探ると、苛立つほどに捕らえどころが無く、誤った情報の増加で積み重ねられた年月が「事実データの欠如」という苦境と混じり合っている状態である。例えば、未だに抜け切れない寓話の一つとして、ジョプリンが1868年11月24日にテキサス州テキサカーナ Texarkana で生まれた、という説がある。まずこのロケーションは外しておきたい−テキサカーナは1873年に設立されるまで存在しないからだ;誕生5〜6年後である。家族を知る人の証言では、スコットが生まれたのはテキサス州マーシャルMarshall で、後にテキサカーナとなる場所から70マイル程南に下った辺りだという。国勢調査を調べると、1870年当時、彼の家族はさらに40マイル程離れたテキサス州リンデン Linden の農家で暮らしていたことが分かる。その同じ調査−1870年の7月18日付−が示すのは幼いスコットが既に2歳だった事実で、それゆえ1868年11月24日が誕生日という説は除外されて良い。1880年の国勢調査、及び彼の死亡診断書でもこの点は確かである。彼が生まれたのはいつか、その正確な日付は決められないにしろ、これらの資料からわかるのは、1867年7月19日から1868年の1月中旬までの間、ということだけだ;恐らくは1867年生まれと思われるが。

 生誕にまつわる一件は、ジョプリンの生涯に関する真実を突き止めるための問題点を如実に示している。つまり、知人が語った逸話を選り分けながら、他の証言や新聞・雑誌の記事、公的記録、そして常識に照らし合わせてみる必要がある、ということだ。その結果、多くの不確かな話が捨て札となる一方、他の話と符号させることで「予期せぬ新しい発見」がもたらされることもある。そのうえでこの<証拠>に対し、確かな記録が欠けている幾つかの要因を引用しながら、それらしいと感じられる「熟慮に富む考察」を付け加えながら、この話を進めて行きたい。

 スコット・ジョプリンの出生を必要以上に不幸な境遇で考える必要はない。6人兄弟の次男として生まれ、アフリカ系アメリカ人の両親は南北戦争後の時代性の中、テキサス州北東部で何とか暮らしを立てていた。ジョプリンが少年期の大半を過ごしていたのが新都市のテキサカーナで、位置的にはテキサス州とアーカンソー州にまたがった所だ。幼い頃より音楽の才能を見いだされていた様で、地元で音楽教師をしていたドイツ移民ジュリアス・ヴァイス Julius Weiss から無料でレッスンを受けていたが、当時の生徒によればヴァイスはヨーロッパのクラシック音楽に造詣が深く、特にオペラを大変に好んでいたという。後にジョプリンの最後の妻となったロッティ Lottie は、ジョプリンがヴァイスと終生に渡り手紙をやりとりしていたと記憶しているが、この事はジョプリンの音楽性と美学の形成にヴァイスが与えた影響の大きさを物語っているだろう。

 ジョプリンの名前が新聞に掲載された最初期の記事−1891年−によれば、当時はテキサカーナの地元ミンストレル楽団へ在籍し、1893〜94年にはテキサス・メドレー・カルテット the Texas Medley Quartette というボーカルグループを率いて中西部から北東部−オマハからボストン―へも巡業していた様だ。巡業地にはシカゴも含まれていたが、シカゴ万博で演奏した記録は見つかっていない。その後は1894年後半にミズーリ州セダリア Sedalia へ移り、翌10年程はこの地を出たり入ったりしながら過ごすこととなった。

 セダリアでは、クイーン・シティ・コルネット・バンド Queen City Cornet Band という13人程の黒人音楽家によるアンサンブルでコルネットを吹いていたほか、自身も6人編成のダンスバンドを結成。また、町の様々な界隈でピアノを演奏したり、テキサス・メドレー・カルテットを8人編成のダブルカルテットに再編したり、多彩な活動を続けていた。一方、1895年にはニューヨーク州・シラキュース Syracuseで、初の2曲の自作品−1890年代によく見られるセンチメンタルな歌曲―が出版され、この実績は翌1896年の3曲のピアノ曲出版−マーチが2曲、ワルツが1曲−へと続くこととなった。

 かくして稼ぎのある音楽家になったジョプリンだが、一方で音楽への理解を深めるべく、若きアフリカ系アメリカ人向けに創設されたセダリアのジョージ・R・スミス大学 George R. Smith College で、音楽のコースを受講している。また街中では、ブラック400 the Black 400 やメープル・リーフ・クラブ the Maple Leaf Club といった黒人社交クラブのダンス伴奏を務め、地元新聞のセダリア・キャピタル紙 the Sedalia Capital にも「当地きっての最高のピアニスト」と書かれている。

 ジョプリンの初めてのラグタイム作品『オリジナル・ラグズ Original Rags 』は1899年3月に出版され、同年9月には『メープル・リーフ・ラグ the Maple Leaf Rag 』が続いた;証言によれば作曲されたのは1898年、あるいは更に前の1897年との事だが。このドラマチックなラグはジョプリンの人生に大変に大きな影響を及ぼしただけでなく、ラグタイムの歴史を塗り替え、その後の方向性を決定づけることとなった。ラグタイムに洗練された新しい世界を提示した『メープル・リーフ・ラグ』は、当時最も広範囲に賞賛され、同時に「最もよく真似された」ピアノラグとなった。

 しかし、それがどんなに傑出した作品であったにせよ、ジョプリン自身はラグタイム以上の曲を生み出すという大望を抱いていた−『メープル・リーフ』の出版後わずか数週間で、自身の出版元ジョン・スターク John Stark へ、アフリカ系アメリカ人のダンスで構成されたバレー作品を送り届けているのである。このバレー作品は、彼の友達や知人達によって1899年11月24日にセダリアのウッズ・オペラ・ハウス Wood's Opera House(本物のオペラが上演されることは極めて稀な劇場だった)で初演され、その後も幾つかの近隣の町で上演された。また、次の夏には『ラグタイム歌曲とカドリール・ダンス(註:フランスの舞踏形式)』という新バージョンへ再編し、ジョプリンは地元プレスからも大変な賞賛を浴びることになった―ある新聞はジョプリンを稀代の天才と称したが、当時のアフロアメリカンの境遇からは考えられないことだ。曲が長すぎるとの理由でスタークは出版を1902年まで見送っていたが、ジョプリンが短縮版に仕上げ直した結果『ラグタイム・ダンスThe Ragtime Dance 』と名付けられた作品になった。このバレーは、芸術的に価値の低い音楽としてしか見られていなかったラグタイムを、クラシックと同じ地位へ高めようと努力したジョプリンの意図が初めて記された作品であり、出版元のジョン・スタークもこの志しに応えるように以降も優れた作品を選出、自らの会社を「クラシック・ラグの殿堂 The House of Classic Rags 」と称した。

 ジョプリンはセダリアで賞賛の的となり、何人かの弟子も育てていたのだが−後にラグタイム作曲家となるアーサー・マーシャル Arthur Marshall やスコット・ヘイデン Scott Hayden がいた−、更に大都市のセントルイスへと旅立つことを決意し、1901年の初頭に当時婚姻関係を結んでいたベル・ジョーンズ Bell Jones と共に町を離れた。

 かつて短期間ながらセントルイスに住んでいたジョプリンは多くの友人に迎え入れられたが、特にトム・ターピン Tom Turpin と親交を深めた;黒人作曲家として最初のラグを出版した人物(『ハーレム・ラグ Harlem Rag 』1897年出版)でセントルイスのラグタイム中心地であるローズバッド・バー the Rosebud Bar のオーナーでもあった。演奏者のレベルが高いセントルイスでは「ずば抜けて上手いピアニスト」とも言えなかったジョプリンは、この地で後進の指導と作曲に専念、『イージー・ウィナーズ The Easy Winners 』や『ストレニアス・ライフ The Strenuous Life 』(セオドア・ルーズベルト大統領 President Theodore Roosevelt へのトリビュートである)、『エリート・シンコペーションズ Elite Syncopations 』、そして『エンターテイナー The Entertainer 』といったクラシック・ラグは注目を集め、主要なプレスから絶えず賞賛されていたが、それに加えてセントルイス合唱・交響楽団 the St. Louis Choral Symphony Society の音楽監督・指揮者、アルフレッド・エルンスト Alfred Ernst といった著名な文化人からも賛辞を得るようになった。

 一方、私生活は上手く行っておらず、ベルとの間に生まれた子供が幼くして亡くなり1903年には二人に破局が訪れた。それでも彼は働き続け、ラグタイムのオペラを作曲することでラグタイムの音楽的な限界を押し広げようとしていた。その証拠と言える大胆な作品『ゲスト・オブ・オナー A Guest of Honor 』(名誉ある客)は、国を二分した1901年の出来事を描いた作品で、当時の大統領セオドア・ルーズベルトが黒人指導者ブッカー・T・ワシントン Booker T. Washington をホワイトハウスの晩餐会に招待した話を題材にしていた―当時の過激な批評家達が「白人と黒人の人種間における社会的平等という<受け入れがたい象徴>だ」と不満を示していた件である。ジョプリンは30人規模のオペラ団を結成、1903年の8月から11月にかけて中西部の市町16か所を巡るツアーを計画した。恐らく何回かのプレビューショーがあったと思われるが、1903年9月2日のイリノイ州スプリングフィールド Springfield における公式な初演オープニングで、公演マネージャーのフランク・W・マイザー Frank W. Meiser が劇場での滞在宿泊に支払う資金を持ち逃げしたことで、衣装や楽譜などジョプリンのあらゆる携行品が即時に差し押さえられ、開演を待っていた劇場の客達にもショーの中止が告げられてしまう。ジョプリンは劇場主に対し、休憩時間に入場料の売上から支払いをすると説得したが交渉は決裂、このオペラが再演されることは二度と無かった。

 1903年の年末に、ジョプリンはアーカンソーの親戚を訪ねる旅に出た。リトル・ロック Little Rock で彼はフレディ・アレキサンダー Freddie Alexander という19歳の女性に出会い、自作品『クリサンセマム Chrysanthemum−アフロ・アメリカの間奏曲 An Afro-American Intermezzo』を捧げた。ラグタイム作品にも関らず『間奏曲 Intermezzo 』という叙述的な副題をつけたのは、より洗練された作品であると示したかったのだろう。かくしてジョプリンとフレディは1904年6月に結婚、セダリアへ移り住んだ。その夏、彼はコンサートのスケジュールで多忙だったが、若き妻がその公演に付き添うことは無かった−セダリアに着いて間もなく病気になったためだ。病状は肺炎へと悪化し、1904年9月に息を引き取った−結婚後わずか三か月のことだった。

 ジョプリンはセントルイスへと戻った−そこで会期中の万博では新作『カスケーズ The Cascades 』がヒットしており、フルート演奏家サミュエル・ジョセフ・リード Samuel Joseph Reed がリーダーを勤めるバンドでもピアノを演奏した。後世、リードは自分の息子達にジョプリンの事を語っているが−「スコッティ Scottie 」と呼んでいたらしい−、彼はジョプリンを「大変に知的で教養があり素晴らしいピアニストだった」と評している。

 セントルイス滞在中に、スタークに替わる出版社を探していたジョプリンは、シンコペーティド・ワルツの『ベシーナ Bethena 』と『ビンクス・ワルツ Bink's Waltz 』を他社から出している。1905年にはシカゴへ短期間滞在しており、その時に誕生した曲が『ヘリオトロープ・ブーケHeliotrope Bouquet 』である―若き(そして短命だった)友人、ルイス・ショーヴィン Louis Chauvin との共作で、その才能が巧みに反映された一聴して忘れることのない美しいラグタイムだ。

1907年、ジョプリンは定住を考えニューヨーク New York へと移った。いくつかの出版社と新しくビジネス関係を結んだが−セミナリー・ミュージック Seminary Music が知られている−、1905年に当地へ移っていたスタークとの仕事も続けていた。ある日、スタークのオフィスで彼はジョセフ・F・ラム Joseph F. Lamb という若き白人のアマチュア音楽家に出会った。二人は友人となり、ジョプリンの勧めでスタークはラムの『センセーション Sensation 』を出版した(1908年−セールス強化のためジョプリンの名前が「編曲者」として付け加えられた)。高いクオリティをもつ『センセーション』がヒットしたためスタークはラムの他のラグ曲も出版することにしたが、翌10年に渡って出版されたこれらの作品により、ラムは今日では「ラグタイム界の偉人の一人」とされている。

 ニューヨークで多数の知友と賛辞を得る中、ジョプリンは「カラードボードビリアンの慈善協会 Colored Vaudeville Benevolent Association 」でも活動し『パラゴン・ラグ Paragon Rag 』を献辞している。彼の際立ったラグ作品にはこの時期のものも多く、『ローズ・リーフ・ラグ Rose Leaf Rag 』『フィッグ・リーフ・ラグ Fig Leaf Rag 』『シュガー・ケーン Sugar Cane 』『パイナップル・ラグ Pine Apple Rag 』『グラヂオラス・ラグ Gladiolus Rag 』があげられる。にもかかわらず、彼はインタビューで、「ニューヨークに出てきたのは、現在作成中の大作オペラ『ツリーモニシャ Treemonisha 』の後援者を探すためだ」と語っている。このオペラがラグタイムであると認められる箇所はほとんど無いにもかかわらず、最も印象に残るのはラグタイム的な箇所、すなわち『アウント・ダイナー・ハズ・ブローゥド・デ・ホーン Aunt Dinah Has Blowed de Horn 』、そして『ア・リアル・スロー・ドラッグ A Real Slow Drag 』である。ジョプリンが書いた筋によれば、ツリーモニシャは、ある独立した黒人社会の若き女性の物語で、彼女は自らが受けた教育により隣人達を導いていく−(無学を象徴する)迷信と悪習を捨てることが輝かしい未来への扉となるだろう、と。このオペラにはやや自伝的な匂いが感じられ、ジョプリンの少年時代の音楽体験、母親、そして亡くなった妻フレディのことを思い起こさせる。フレディについては分からないことが大半なので、ツリーモニシャのキャラクターとどの程度まで一致するか見極めるのは難しいのだが、1884年9月というオペラの背景はフレディの誕生日を引き合いに出しているように思われる。彼女は1884年の6月中旬から9月上旬までの間に生まれているからだ。オペラの筋に特定の年月が関係していない点を考慮すると、ジョプリンは亡くなった妻の記念碑とすべく、この設定を選んだのではないだろうか。

1910年になっても出版の見込みを得られなかったジョプリンは、1911年の5月に止む無く自費出版へ舵を切った。彼の友人達が語る話によれば、出版依頼を求めたジョプリンはテッド・スナイダー・ミュージック Ted Snyder Music に勤める新進気鋭の作曲家、アーヴィング・バーリンIrving Berlin にスコア渡していた様である。これはありそうな話で、テッド・スナイダー・ミュージックと(ジョプリンが委託していた)セミナリー・ミュージックはオーナー同士が親戚関係にあり事務所も共有していたからである。友人の話によれば、バーリンはジョプリンの手稿を「使えない」と言って返したのだが、その後1911年3月にバーリンは有名な大ヒット曲『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド Alexander's Ragtime Band 』を出版、この曲を聴くなりジョプリンは「未発表のオペラから曲が盗まれた」と叫び、最終的にバーリンの曲と似通ったセクションを書き換えたとの事なのだが、そのセクションがオペラの最後を飾る曲『マーチング・オンワード Marching Onward 』に相当しており、確かにジョプリン自身が修正したとはいえ『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』のフレーズと似通った部分が今でも感じられるのである。この類似の重要性に異議を唱える方もいるだろう−バーリンの曲がヒットしたのは彼の詩の良さにあり、意図的にジョプリンのテーマを盗用したかも確証は無いのだ、と。しかしジョプリン自身が不当な扱いを受けたと信じていた事実は、疑いないことに思われる。

 話を戻すと、ジョプリンはツリーモニシャ上演に全エネルギーを注いだのだが、最終的にはオーケストラも衣装も無い非公式なパフォーマンス1回、後は「フロリック・オブ・ザ・ベアーズ Frolic of the Bears」1曲のみの正式公演を1度やっただけに終わった。ロッティ・ストークス Lottie Storks −1912年頃に新たな婚姻関係を結んだ女性(1913年10月30日にジャージー・シティ Jersey City で結婚)−が彼の財政的な支援を引き受けると二人は出版社を設立、最後のラグとなった『マグネティク・ラグ Magnetic Rag 』と、かのオペラから3曲の編曲譜を出版した。彼女の支援にも関らず、残る人生でジョプリンが成し遂げたことはほとんど無い―梅毒の第三期症状に苦しみ肉体的にも精神的にも衰弱していったジョプリンは1917年1月に入院を余儀なくされ、同年4月1日に病死した。

 しかし、ジョプリンの歴史は彼の死をもってしても終わりはしない。かつて彼は「死んでから25年経たないと本当の評価はされないだろう」と自ら語っていたのだが、その預言は正確だった―彼のラグタイム作品の大半が死後何年も忘れられていた中で『メープル・リーフ・ラグ』は1920〜1930年代にも演奏され続けた。1940年代になると−死後、四半世紀だが−その音楽と生涯に新たな興味が再燃、以後の四半世紀を通じて演奏の機会やリサーチ調査が加速度的に増えていった。そのピークとなったのが1970年代初頭のイベント−すなわち、ニューヨーク・パブリック・ライブラリー New York Public Library による2冊の楽集出版とクラシックレーベルからの作品リリース(ジョプリンなら歓迎した展開だ)、そして『ツリーモニシャ』の完全上演で、これは最終的にブロードウェイへも繋がった。そして1974年には更に幅広い世界が開けた−アカデミー受賞映画『スティング Sting 』のサントラとして彼の曲が全面的に使用されたのである。突如として、あらゆる人がジョプリンを演奏し始めた−かつてこの様に広範囲に彼の音楽が正当な評価と理解を得たことはなかった。また、クラシックとポップスという双方のジャンルで膨大な数の演奏がなされることで、ジョプリンのラグはジャンルの垣根を超越してしまい、数々のレコーディングが両分野のヒットチャートで上位にランクされるに至った。1976年には−彼の業績に対しては遅すぎる話なのだが−、ピューリッツアーよりジョプリンに特別賞が贈られた。

 ラグタイムとジョプリンへの1970年代の熱狂的リバイバルは終わりを告げたが、ジョプリンは今も私たちと共にある。テレビやラジオのCMでも彼の曲を耳にするし、アイスクリーム売りも調子のよい演奏を聞かせてくれる。さらに重要なのは、生演奏か録音かを問わず様々な演奏スタイルと多様なメディアを通じてジョプリンの音楽が聴ける様になった点だ−ピアノ、弦楽四重奏、オーケストラ、それら全てがこの活気に溢れた魅力的な音楽の潜在的な力を探求しているのである。スコット・ジョプリンの音楽は今やスタンダードともいえるレパートリーであり、現代の生活にとけ込んだ音楽なのだ。

Copyright 2003-2018 エドワード・A・バーリン Edward A. Berlin

〔訳者から〕

 この文章は、アメリカの著名なラグタイム研究家であるエドワード・A・バーリン氏 Edward A. Berlin のインターネットサイト「Edward A. Berlin's Website of Ragtime and Scholarship」における記事『Scott Joplin: Brief Biographical Sketch』を日本語に訳出したもので、翻訳及び当サイトへの掲載に当たっては、原著作権者のバーリン氏より許可を頂いております。尚、英語の原文をお読みになりたい方は、バーリン氏の公式サイト(下記URL)を直接ご訪問下さい。
http://www.edwardaberlin.com/index.htm

 ジョプリンの生涯に関する情報の普及のため、当文章を「引用」されることは歓迎いたしますが、許可無く転出・転用されることはご遠慮下さい。

 訳出の記載に関して、以下の点をご了承ください。
・ 飛躍した訳出表現については<>で囲んでいます
・ 訳注、代行、補足となる表現は[]で囲んでいます
・ ()表記は原文における使用を尊重しています
・ 曲名には『』を使用しています
・ 固有名詞(地名、氏名、団体名、等)は、アルファベット表記を併用しています。訳者によるカナ表記は参考程度としてください
・ 原文の持つシンプルな力強さを尊重すべく<表現に色を付ける>のは押さえたつもりですが、訳出の正確さにはあまり自信がありません

 この訳出をお読み頂いたことを機会として、是非、原文をお読みのうえ、それぞれの理解からバーリン氏の文章を味わって頂くと同時に、ジョプリン及びラグタイムに関し一層の興味を持って頂ければと希望しています。

2019年3月
日本ラグタイムクラブ 事務局・会員
青木 日高

文:青木 日高さん(JRC会員)

戻る