『メープル・リーフ・ラグ』出版に関する“ストーリーズ”
 
〜「成功」の、表に<伝説> 裏に<献身>〜

 

スコット・ジョップリン (Scott Joplin) の出世作にして最大のヒット曲である『メープル・リーフ・ラグ (Maple Leaf Rag) 』−この曲が、ラグタイムは元よりアメリカ(ポピュラー)音楽史に残る大ヒットとなったこと、あるいは「スターク (John Stark & Son : 当時) 」という会社からシートミュージックとして出版されたこと、は<よく知られている事実>と言えます。

その一方で、こういった<知られるほど有名な事実>についてまわるものとして、

< 伝 説 >

という名の<ストーリーズ>が存在します。もちろんこの著名な『メープル・リーフ』についても例外でなく、

等があいまって、単なる白人の楽器商だったスタークと、当時はほとんど無名で、かつ酒場のミュージシャン的なスタンスに置かれていた黒人のジョップリンとの

<不思議な−しかし、必須とも思える−出会い>の「いきさつ」

について、当時の色々な時代背景や関係者の憶測、さらには大衆の「伝説」への期待感などが交じり合い、様々な「ストーリーズ」が生まれました。ここではそのいくつかを紹介しつつ、主題にあげたような観点を通して何かしら考えてみれれば、と思います。

それでは始めに、最も一般的な「ストーリー」から・・・。


 

1 最も有名な<伝説>であり、
一般に『事実』と言われているストーリー

ある夏の暑い日のこと、セダリアの楽器商だったスターク氏は、ビールを一杯やろうと「メープル・リーフ・クラブ」に立ち寄った。ちょうどそのとき、ジョップリンが店で『メープル・リーフ・ラグ』を演奏しており、この曲に感銘を受けたスターク氏は、出版について話がしたいので翌日自分の楽器店に来るようにと頼んだ。かくして翌日、出版の契約が成立した。

この話は『They All Played Ragtime』というラグタイムのバイブル的な本に書かれているもので、そのため恐らく最もよく引用されているストーリーだと推測されます。ラグタイムについて一般に紹介している本や楽譜集の解説にも、だいたい同じようなことが書かれているのではないでしょうか。

しかし、私が読んでいる『King of Ragtime』の著者 Edward A. Berlin は、自身の<献身>的ともいえる綿密な調査をバックボーンとした上で、誰もが容易に想像しうる平易な質問を自ら発することにより、この<伝説>にいくつかの『もっともな疑問』を呈しています。

Berlin 氏 による『もっともな疑問』

  1. セダリアには同じような店(クラブ)がいっぱいあるのに、何故スタークは「黒人のためのクラブ」で「酒販売のライセンスの無い(よく こんなこと調べましたよね!)メープル・リーフ・クラブに、わざわざ一杯のビールを飲みに行かねばならないのか?
  2. セダリアの夏は非常に暑く湿気が多いのに、わざわざ更に暑い2階の店(クラブは2階にあったそうです。丁寧に調べていますね。)へ行ったのは何故?
  3. もう一軒別の有名な黒人クラブでは、暑い夏は「休業」していたらしいのだが、それでもこの店は営業していたのだろうか?

さらに Berlin 氏 は、もう一方の「権威」筋の話が上記の逸話と異なっている点をウィークポイントと考え、その「別の権威」である「彼の息子」(スタークの店のマネージャーでもあった)の話を次に引用しています。

2 具体的な上に「オチ」までついている点が、
余計に<伝説>らしいストーリー

(息子はメープル・リーフ・クラブでの件については触れずに語った)

オフィスでスコットが、初めて(←ポイントです。)『メープル・リーフ』を弾いたとき、スターク氏(←父親のこと)は頭を振ってこう言いました。「難しすぎるな。誰も弾けやしないぞ。」

するとスコットは、「外の通りにいる人の中で、誰か弾ける人がいたら出版してくれますか?」と言うので、スターク氏もいいだろうと了解したんです。

そこで彼は外から14歳くらいの黒人の男の子を連れてくると、ピアノの前に座らせました。するとその子が、すぐにその曲をミスも無しに最後まで弾いてしまったんです。スターク氏は、ぴしゃりと膝を打って言いました、「よし!出版しよう」。

もちろん当時のスターク氏は、その子供が実は全然楽譜など読めない上に、難しい『メープル・リーフ』を弾けるようになるため何ヶ月も練習させられた上で、わざわざカンザスシティーからスコットに連れてこられていた ― なんてことは、知るよしもなかったんですが。

用意周到なジョップリンを物語る大変ユニークな逸話で、まさに「ストーリー」なのですが、逆に余りに「できすぎた」点がいなめませんし、何よりも、

かくも準備された芝居を、
何故「出版業をしていないスターク氏(当時は楽器商)」
に対して、わざわざしなければならなかったのか?

が最大の疑問点として指摘されています。

一方この話のバリエーションとして、スターク氏の息子の妻が語ったところによれば、

「主人のウィル(スタークの息子)によると、ジョップリンが楽譜と一緒に連れてきた子供は、単に曲に会わせて踊っていただけ。おじいちゃん(←スターク氏。ホントは義理?の父)は『難しすぎて誰も弾けない』って思っていたんだけど、その踊っている様を見た主人が気に入って、<彼が>買うことに決めたの。」

ということになっています。確かにいくぶん不自然さは和らいでいるものの、上記の疑問が解決されている訳でもありません。

さて、肝心のスターク氏本人の話には、「クラブ」も「子供」も「息子」も出てこないようです。

3 シンプルでもっともらしいが、あまり面白くもなく、
既成の歴史 から遡って類推できる<事実>

何年か前に彼が最初にスタークの店に来たとき、『メープル・リーフ・ラグ』と『サンフラワー・スロー・ドラッグ (Sunflower Slow Drag) 』の手稿を持っていたのだが、これらの曲はそれまでに当たった出版社全てに断られていた。

しかしスターク氏はすぐに彼の曲の「クオリティ」に気づき、これらを買い入れた上で5年間の専属契約(←だと思うのですが?)を結んだ。

かくして彼の会社は、後の偉大な財産ともなる作品の大半を手に入れることとなった。

5年契約については、はっきりとしているわけでは無いようですが、「ロイヤリティー」に関する出版契約については、1975年になって<事実>が明らかになり、それにより今回の「出版のいきさつ」についても、更に現実的な<新事実=伝説の裏の献身?>が明らかにされることとなります。

1975年に『メープル・リーフ』のロイヤリティー契約が発見されます。これによりそれまで様々な伝説に彩られていた「スタークとジョップリンの出会い」が新しい<事実>により塗り替えられることとなりました。その鍵となったのが、『契約立会人』としてサインしている R.A.Higton (以下 Higton 氏 と略します)であり、Berlin 氏 はこの「キーマン」の娘さんから、以下の現段階では最も<事実>らしい話を、直接に聞き出したようです。

4 証拠を元にした「事実」が、
<納得の伝説>に転ずるための<献身的行為>とは?

1898年に法律の学位を得た Higton 氏 はセダリアに自分の事務所を構えた。彼はよくクラブにダンスに行っていたのだが、そのクラブでピアノを弾いていたのがジョップリンであり、ピアノのそばに立つことが多かった Higton 氏 は、この黒人ピアニストとすぐに知り合いになったのだった。

あるときジョップリンが作ったばかりの新曲『メープル・リーフ・ラグ』を披露すると、感動した Higton 氏 が「この曲は出版されるべきだ」と提案する。どうしたら良いのかわからない、と答えたジョップリンに対し、彼は<無償で>働きかけをしてあげようと申し出た。

その後彼は、同じ教会に通っていて当時自分の店を経営していた知人―ウィル・スターク(息子の方)に話しをもちかけ、「歴史的な」会合の手はずを整えるのである。

1899年8月10日と日付の入ったこの契約書には、有名な1セントのロイヤリティーの条項が盛り込まれていますが、通常この手の契約では―特に黒人相手の場合―25$または50$程度の<買取契約>が一般的だったらしく、このようなスタイルは実に異例のことだったようです。

この契約がジョップリンとスタークにもたらした「成功」は、もう周知の事実となっていますが、スタークにとってもこの曲は『稼ぎ頭』だったようです。後に楽譜出版でニューヨークに進出した際には、大手出版社との間で「熾烈な価格戦争」が展開され大きな痛手を受けるのですが、その際でも『メープル・リーフ』だけは大幅な値引きをせずとも売れており、第一次大戦中ですら平均8.5セント、時には12.5セントでも売れたようです。その他のスタークの出版曲が3〜7セント程度だったことを考えると、いかに『メープル・リーフ』が<普遍的な人気>を保っていたかが、価格面からも推測されるのではないでしょうか。

一方の Higton 氏 は、ラグタイムという世界においては1度も表舞台に立つことなく忘れられていた存在だった訳ですが、しかし彼自身の<素晴らしいと思ったもの>にたいする<献身的>な気持ちが無ければ、従来私達の知る『ラグタイムの歴史』も、いくぶん違ったものになっていたのでは? という気がします。

確かに『メープル・リーフ』は素晴らしい曲ですので、いつかは誰かが目をつけたかもしれません。しかし、

  1. もしただの買取契約だったら、ジョップリンの安定した収入は期待できなかったかも知れない。そうなるとあれだけの良質な楽曲を量産できたかどうかは疑問。

  2. スタークが既に出版業のプロだったら、彼にとっては不利となる「ロイヤリティー契約」は結んでいなかったのでは?

  3. しかしながら、その後の出版キャリアをみれば、スタークには「搾取するだけの出版社」には見られない<音楽への献身>が感じられる。

  4. 黒人全般の地位が低いうえに、さらには同じ黒人のコミュニティーからも蔑視されていた『盛り場演奏家』のジョップリンに対し<音楽の本質>を垣間見た Higton の<献身>が、将来の相方としては良心的とも言えるスターク(このときはただの楽器商)との、歴史的かつ運命的な出会いを導いた・・・

このように色々と考えてみると、

<素晴らしいものとそれを見ぬいた人が自然に辿る道 = 必然

を感じずにはいられません。そしてこれこそが

<伝説> として語り継がれるに足る <事実>

と言えるのではないでしょうか?

 


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│♪ 引用・参考資料 ♪│
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●『King of Ragtime』
 著:Edward A. Berlin  出版:Oxford University Press

*引用箇所の「更なる原典」については、上記原本の「NOTES」をご参照下さい。

文:青木 日高さん(JRC会員)

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